April 18, 2003

燃料

しかしまぁなんというか。
まるきり燃料投下してしまったようなことになってしまった。


blog言いたいだけちゃうんかという話に対しては
例のblog騒動を見てなおそれを言うほど脳天気ではないです。
リンクに対する感覚をキーにして話をすすめたのは
自分の感覚を頼りにしていた時点で間違いだったのですが
立ち位置についてやはり誤解されている感じがしたので、その弁解をば。
これ以上墓穴掘るようなことになりませんように(苦笑)

 
アメリカでのblogは日本でのweb日記文化と同じように(しかし遅れて)発生し
それぞれに特徴的な同様の機能的な発展を見せながら進んできたが
現在の日本のweb日記界隈(をどことするのかがこれまた大変)とは
全体として違った形態を持つに至った。というようなことで
個別的に見ていけばほぼ同じようなものだったと言えると思います。
で、その違った方向性に行く際には「できる・できない」じゃなくて
どうし向けたかということが重要なんだろうと思っていて
それこそが本質なんだろうというように捉えたわけです。
個別機能・内容が本質であるとするならば、ほぼ同じ、よく似ていると言えるのですが
なぜblogでは日記周辺にも存在したサービスや機能が一所にあつまったんだろうなと。


「同じようなことはできた」「このやり方でできる」というのは
できる・できないでいえば「手書きhtml+t-cup+アクセス解析cgi+リンク集登録」
でほとんどのことが可能なことだと思いますし
以前に自分でまさにそういうことをしてもいました。
手書きhtml+t-cupとアクセス解析cgiで今やってるようなことをやるのも
可能なわけですが、ちょっと大変ですよね。
テーマも手動で分類できますし、entryごとのコメントも別ページにうつる
ということをよしとするなら、レンタル掲示板で代用できそうです。
それがわかってないわけではなくて、その「指向性」をネタにしたいのです。
「できる」ことであっても面倒であればあまり多くの人が使いませんし
あまり多くの人が使わない、しないことであれば全体像が変わらないと思うのです。
例えばPDAやノートパソコン+携帯電話で「どこでもemail」が使えるといっても
道具をそろえること、セットアップ、使える場所の選定等々けっこう面倒です。
しかし携帯電話にemailの機能が備われば誰でもどこでも使えるようになります。
だからこそ誰でもが電車の中で携帯を使ってメールを書くような状況が発生すると考えた時
「別々の物を使ってもできることが一つにパッケージングされている」ということが
個別の人にとっては重要ではなくても全体にとってはかなり重要なことだと言えます。
PDA+携帯電話で満足している人には関係ないようにみえても、
「どこでもメールを受け取れる」人が増えるという状況になれば影響がありますよね。
そういう面をなんとなく重ねて見ているんですね。
#tDiaryを独り言用に使う人がいても全然問題なくて
 独り言用に作られているものかそうでないかが重要になるんです。
 tDiaryの使われ方として独り言ばかりだったとしたらそれはちょっとまた別の問題。
具体的にはweblogs.comに更新情報を送ることとか。
ツールにはじめから実装されていたり、blogrollingのように当たり前に使われていたり。
登録すればできる、では弱いと感じます。
で、そのパッケージのラベリングとして今のblogがあって
web日記ではちょっと違うなぁという感覚を持ってしまうということです。
その原因としてはWeb日記という言葉の含むところが大きすぎるということ。
第一世代・第二世代という分け方しかり、独り言系・コミュニケーション系しかり。
やはりそういった別のラベルがあったほうがわかりやすいのではないですかね。
いや、やはりそれも含めてweb日記だということであれば
日本におけるblogはweb日記の下位概念にあるということになって
それならそれでOKだと思います。


状況を表す言葉としてblogという単語を使うこと自体が誤解の種だったかもしれないので
それは今後自重するようにします。

Posted by kengochi at April 18, 2003 06:13 PM
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