>>ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ :StrangeIntimacy
blogとweb日記を概念的に対抗軸ととらえることと
感覚として対抗する物ととらえることは意味が異なる。
blogに対する感情的な反発はblogがweb日記をリプレースするものとして
とらえたり、これまでのweb日記の文化を無視しているものとして
扱われている、ということを不当であると感じるからだろう。
個人的には全くそういうことは思っていないし
むしろ日本のweb日記の文化にblog的な物事をとりこんでいくなり
そういった背景を持った「日本のblog的な文化」をつくっていけば
(というかできていくものだと思う)いいのだろうと感じている。
アメリカにも掲示板cgiはあるが2ちゃんねるは無い。
tDiaryも関心空間もなさそうだ。
それでいいのだと思う。
で、jounoさんの文章の一番はじめの方を読んでいて思い出したことは
倉木麻衣と矢井田瞳のことだ。
倉木麻衣はデビュー当時宇多田ヒカルのパクり的に扱われていた。
実際デビュー曲のPVは宇多田ヒカルのそれを意識していたと感じるに足る
内容であったが、今そんなことを言ってる人はいない。
それは倉木麻衣という人物に対する認識が多方面からの情報によって
ある程度着地したからだと考えられる。
矢井田瞳は椎名林檎と比較されていた。例の「ダリンダリン♪」の曲の時だ。
女の子がラウドなギターをかきならして歌うというスタイルのアイコンとして
椎名林檎が地位を確立したころに出てきた矢井田瞳は、やはりパクりとも
言われていた。しかしながらメジャーデビュー直前のPVを見ていた僕は
林檎というよりaikoなんじゃないの?とか思っていたわけだが
つまりはこれも「矢井田瞳」という人物を認識するための情報が足りないわけだ。
(デビュー直前の曲ではミニスカートをはいている)
今もまだ矢井田を林檎を下敷きにして評する人はいるかもしれないが
特にそれが大きい勢力というわけではない。林檎を持ち出さなくても
矢井田は矢井田として認識されたということだ。
「blog」という言葉もそれに近いところがあるんじゃないだろうか。
blog的だと言われる物事のなかに入り込んで見てみれば
これはちょっと違うんだなと思う事々がけっこうある。
blogなるものの概形を認識するにはやはりある程度の情報量が必要で
多くの人にとってはまだデビュー当時の倉木麻衣状態なのだ。
要はその「違い」を認識したかどうかと
その「違い」を重要であると感じるかどうか。
モーヲタにとっては一人一人の個性の違いが重要だが
全体としてのモー娘。だけ認識していれば十分という人もいる。
認識する側の立ち位置によっても変わってくるのだ。
違いは確かにあるが有意な差ではないと思う人にとっては
「同じ」であると言ってしまって問題ないのだろう。
もうひとつjounoさんの文章の中で
つまり、答えはblogである必要はなかったが、blogが答えることがそれなりにできて、まだ完全には日本の状況が答えることができなかった問いというか需要というのがあった。そういう不確定な需要にたとえばtDiaryその他のシステムはそれぞれの分野でそれなりに答えようとしていたのだが、まだかなり距離があった。そこにblogという概念がくることで、その潜在的な需要に答えようとしていた人的パワーのうち幾ばくかがそれを答えとみなした。
また、
では、とひるがえって、これらと平行してうまれ、そしていまもあり、かつ、blogという方向性では答えられていない、そういうものはなんだろうか。ともかく、そのへんがうまくいかないかぎり、しっくりこない感じ、というのは残ると思う。
それ以外にもjounoさんはいくつかの切り口を提示している。
それらについても引き続き考えてみたい。
Borat creator Sacha Baron Cohen reportedly signs a $42.5m (22m) film deal starring his character Bruno...
Microsoft Xbox 360 Console Cost Reduction Delayed Rumour...